「自分軸」と「他人軸」は支え合うもの

インタビュー
山納洋(やまのうひろし)/大阪ガス(株)近畿圏部企画・開発チーム副課長 / common cafeプロデューサー 1993年大阪ガス(株)入社。神戸アートビレッジセンター、扇町ミュージアムスクエア、メビック扇町、(財)大阪21世紀協会での企画・プロデュース業務を歴任。2010年より大阪ガス(株)近畿圏部において地域活性化、社会貢献事業に関わる。一方でカフェ空間のシェア活動「common cafe」「六甲山カフェ」、トークサロン企画「Talkin’ About」、まちあるき企画「Walkin’ About」などをプロデュースしている。現在、ビジネスデザイン塾「co-design」(主催:(財)大阪デザインセンター)のプロデュース塾塾長を務めている。 著書に「common cafe―人と人とが出会う場のつくりかた―」(西日本出版社)「カフェという場のつくり方」(学芸出版社)がある。

90年代のジャンル・ミックス

山納さんが文化に関わる仕事をされはじめたのは、いつごろでしょうか?

山納:1993年に大阪ガスに入社し、当初3年間は総務の仕事をしました。たまたま社内公募制度で複合文化施設のマネージャー候補の募集があり、それに手を挙げて96年7月に神戸アートビレッジセンター(KAVC)に異動になりました。KAVCはその年の4月に開館していて、僕は演劇・映画・美術の担当者の運営のサポートをし、地域と関わるイベントもしていました。
 その後、97年12月に扇町ミュージアムスクエア(以下、OMS)に移り、2年間は劇場担当者として、99年10月から2003年3月末の閉館まではマネージャーとして勤務していました。

当時、OMSは関西小劇団の重要拠点でした。

山納:OMSは1985年にオープン。小劇場「フォーラム」では、年間70本の演劇公演が行われていました。貸し館だけでなく、主催・提携公演、若手の劇団を紹介する「扇町アクトトライアル」、OMS戯曲賞(1994年〜)と受賞作のプロデュース公演なども行っていました。映画館、雑貨店、カフェも運営し、フリーペーパーも発行していたので、毎日がフルスピードで走っている列車に乗っているようでした。

その頃の演劇や文化の状況を聞かせていただけますか?

山納:80年代は小劇場ブームといわれ、学生劇団が多数でてきました。東京の夢の遊眠社や第三舞台は6万人の集客があり、大企業が小劇団に協賛していました。大阪にも小劇場ブームがあり、「オレンジルーム」という小劇場ができたことで、才能ある学生劇団が次々と現れます。南河内万歳一座、劇団☆新感線、劇団そとばこまち、劇団M.O.P. …。僕がOMSのマネージャーになった90年代終わりには、ブームの陰りが見え始めていましたが、それでも3000人以上を集める劇団が大阪にいくつもありました。
 一方、表現の世界では「ジャンルのたこ壷化」と言われていました。それまでは演劇をつくる人は映画や美術も見ていたのに、演劇しか参照せず作品をつくる人が増えてきた。京都では、芸術大学が多いためか、美術とパフォーマンス、演劇が融合した表現が生まれているのに大阪にはあまりなかった。とすれば、クロス・カルチャーやミックス・カルチャーという状況を仕掛けてつくらないと、演劇というジャンルが力を持てなくなっていくんじゃないか。それをなんとかしたいと思っていました。

どんな手を打ちましたか?

山納:ひとつは2000年から「扇町Talkin’About」をはじめました。あるテーマについて集まった人が自由にしゃべるサロンで、演劇、映画、音楽、アート、お笑い、哲学となんでもあり。参加料は無料で、扇町の10カ所ぐらいのカフェやバーを会場にして、いろんな文化ジャンルの話ができる“しゃべり場”です。多い時は15人くらいの主催者がいて、月に15本くらい開催していました。プロレスのイベントをしようと思ったら、リングを設営しなければいけないけれど、プロレスの話ならいつでもどこでもできるでしょ。そんな手軽さでいろんなジャンルの情報が飛び交う場が作れれば、ここでヒントを得て、芝居づくりに活かしていく人が出てくるのでは、と。扇町周辺の地図にスケジュール一覧をのせたチラシを、月に3000枚をお芝居のチラシの中にはさみこんでいました。それはミクスト・カルチャーを目指したひとつの動きでした。
 同じころ、大阪ガス社員でOMSスタッフの吉田和睦くんとNHKの佐藤正和くんが、OMSで「TIP COLLECTION」という企画を始めました。ひとつのイベントの中で20分ずつのショーケースを4本みせる、演劇、音楽、お笑い、アートなどジャンルを横断する企画でした。劇団であるヨーロッパ企画・スクエア、はじめにきよし(のこぎり演奏家のサキタハヂメとピアニカ演奏家の新谷キヨシのコラボ)、イラストレーターのチャンキー松本、吉村絵里、スメリー、お笑いのバッファロー吾郎など、多様な人々が出ていた。ジャンル・ミックスへの挑戦ですね。
 その後、佐藤くんはNHKで『ピタゴラスイッチ』『シャキーン!』『デザインあ』などを制作し、吉田くんは大阪ガスを退社し、ヨーロッパ企画のマネージャーになりました。『シャキーン!』には、TIP COLLECTIONに出演いただいたメンバーがいろいろ関わっています。OMS時代の文化複合、ジャンル・ミックスが20年たって生きている実例ですね。

表現の場を自分たちで運営する

個人でも、いろいろな試みを実現されています。

山納:2001年からは、日替わりマスターのバー「コモンバー・シングルズ」をはじめています。そもそもの始まりは、Talkin’ Aboutの会場のひとつだったバーが閉店するという話を聞いて、そこを維持するのはどうしたらいいか。「マスターが日替わりで毎日売り上げノルマを持つ。それで月25日間まわせば、家賃は払えるんじゃないか」と考えて、実行したらけっこう上手くいった。そこで、2004年に中崎町に「コモンカフェ」を始めました。同じく日替わり店主という仕組みで、カフェ機能の他、小規模の演劇やトークサロンも開催しつつ、今でも続いています。

コモンバーやコモンカフェで山納さんが実現したかったことは、なんでしょう?

山納:自分やその周りの人の力だけで、表現空間をシェアし、継続させる、ということでしょうか。バブル崩壊後、企業や行政が文化施設を大きな予算で維持するということが厳しくなってきていた。だからOMS(1985-2003)も近鉄小劇場(1985-2004)も閉館した。コモンバーやコモンカフェでは、大きな力に頼らないで表現空間の維持をしたいという思いがありました。カフェなので、劇場としての機能は小さいものですが、自分たちで家賃を払って継続していけるところを一番大切にしました。

「自分軸」と「他人軸」

2003年からは、大阪市経済局が設置した「メビック扇町」に異動になります。デザインやWEBに関わる若い起業家を育てる施設です。OMSでの仕事はアーティストの育成支援でしたが、対象がクリエイターに変わると違いがありましたか?

山納:はっきりとあります。僕は、それを「自分軸」と「他人軸」と表現していました。アーティストは「自分軸」で、自分のやりたいようにものを作る人たち。一方、クリエイターは、クライアントという「他人軸」に沿って、仕事として創作をする人たち。ですが、クリエイターにも、アーティストにも、このふたつの軸が通っている。
 たとえば、劇団のデザインをするクリエイターは、「自分軸」を発揮できる場として、その仕事を受けている。ギャランティは安くても。またクリエイティブ集団grafのように、デザイン部門で稼ぎつつ、アーティストとのコラボレーションを積極的に進めるなど、ひとりの創造者、クリエイティブ集団の中で、ふたつの座標軸を持っていることに気づいたのです。

「自分のやりたい表現」と「クライアントからの仕事」は反発しあうものではなく、融合できると?

山納:「他人軸」と「自分軸」はお互いに支えあうものだと思うのです。たとえば、「コモンカフェ」は、僕個人がやりたいと思って始めた「自分軸」が出発点ですが、やってみるとお客さんという「他人軸」に支えられて継続している。クリエイターも、クライアントからの要望や問題を美しく解くことに喜びがあり、ある意味、「自分軸」にもなることに気づいていければ、もっと可能性が広がるのではないか、と思ったのです。これは、今も僕が芸術とか創作について考えるベースになっています。

その後は?

山納:2007年から2010年までの4年間は大阪21世紀協会(現・関西・大阪21世紀協会)に出向になりました。御堂筋パレード、舞台芸術見本市(pamo)、街角コンサートといった、大阪の街を活性化させるための文化イベントを積極的にやっていた組織です。僕はそこで、いろんな文化イベントをしている人や団体を有機的につなげる仕事をしていました。その後は、大阪ガスに帰社して近畿圏部所属になり、文化やデザインの力を活かした都市開発、地域活性化の仕事をしています。

今、文化面ではどのような活動をしていますか?

山納:最近は、Talkin’Aboutならぬ、「Walkin’About」というものをやっています。それは、参加者がある地域に出かけていって、1時間半ほど自由に歩き回る。再集合した時に、それぞれが発見したそのまちの魅力を話し合うというもの。自治体や行政と組んでやることもあり、生活者目線での地域発見を行政に還していこうというものです。
 ラジオドラマと朗読劇をあわせた「イストワール」という企画も2011年から初めています。ある地域ゆかりの人物のラジオドラマをつくり、MBSラジオで流していただく。それを朗読劇にして、人物ゆかりの地で本公演を行う、というものです。これまで、兵庫県の登山家・加藤文太郎さん、アメリカ村のママと呼ばれた日限萬里子さん、奈良の日吉館女将の田村きよのさん、和歌山県出身の小説家・有吉佐和子さんの4人を作品にしています。脚本は、OMS戯曲賞で最終選考に残った方に依頼しています。

これまでの経験がどのように生かされていますか?

山納:演劇の中でも、自分が書きたいものを書いて、自分で劇場を借りて上演するのが「自分軸」とするなら、発注者のあるこの仕事は「他人軸」なんです。劇作家が元々書こうと思っていなかった題材だけど、地域にとって大事なコンテンツを一緒に作る。それが地域の魅力を増していく。そんな循環していく仕事を創作者、表現者と一緒にやりたいと思っています。

山納さんは大阪の文化の状況をどのようにみていらっしゃるか?

山納:創作者の二面性、「自分軸」と「他人軸」を見てきた立場からすると、その二面に対応するような文化政策にはなっていないと思います。ひとつは、「自分軸」をまっとうさせるフェスティバルのような舞台、もうひとつは「他人軸」を起動させるための仕事(発注者)を組み込んだサイクルが必要だと思います。
 「他人軸」のうち、既存のビジネスの流れにのるものは民間や行政の観光・経済の担当部署でフォローしていければいい。一方で、「他人軸」だけど、大阪の文化資源となっていくもの、大阪の文化力を向上させていけるものは、文化政策として支援していくことが必要だと思います。たとえば、大阪市がつくった文学碑の作家やその作品を題材に、現代の演劇人がドラマをつくる企画があってもいい。また、福祉・医療・まちづくりなど、地域の課題に取り組むアーティストがもっと増えてほしいと思います。いわゆる「社会のための芸術」という発想です。そしてそのための事業や助成をしていく政策が必要だと思っています。
 もちろん、表現者が自分の想いを実現する「芸術のための芸術」は、非常に重要で、それがあってこそ「社会のための芸術」に踏み込んでいけるという大前提があってこそ。その上で、後者の「他人軸」の創作には、まだまだ多くの可能性があることを知らせたいですね。

(聞き手・構成=山下里加)