人とアートと地域をつなぐ

インタビュー
山下里加(やましたりか)/1965年和歌山県生まれ。アートジャーナリスト、京都造形芸術大学アートプロデュース学科准教授。京都教育大学では具体美術協会の嶋本昭三氏に師事。2008年、大阪市立大学大学院創造都市研究科修了。修士論文は「クリエイティブ集団グラフにおける創造的活動の源泉についてー成員の参加と学習を中心にー」だった。主な著書『震災と美術をめぐる20の話』(1995年、ギャラリー・ラ・フェニーチェ刊)、企画協力『きのうよりワクワクしてきた。ブリコラージュ・アート・ナウー日常の冒険者たちー』(2005年、国立民族学博物館)など。

調べる楽しさ、書く楽しさ

山下さんは大阪で美術ライターとして活躍、現在は京都造形芸術大学アートプロデュース学科准教授として「アートと地域」をテーマに教えています。また、大阪アーツカウンシル、大阪府市文化振興会議、高槻市文化振興審議会、奈良市文化振興計画推進委員会のメンバーとして文化行政にも関わりが増えています。
まず、いかに美術ライターになったのかというあたりからお話しいただけますか?

山下:父は英語教諭、母もピアノを教えている教育一家で育ち、もともとは教員になるつもりでした。大学は京都教育大学特修美術科。卒業後はさらに1年間、専攻科で学びました。そのころ、作品をつくるよりもレポートを書く方が好きだと気づいた。課題の作品制作に対しては粘れなくても、調査や執筆には粘れる。ライターになろうと決めました。
専攻科を終え、半年ほどかけてイタリアを起点にヨーロッパをぐるりと一周。帰国後に大阪で就職情報誌の編集アルバイトを始めました。

スタートは美術ではなかった?

山下:読みもの記事はわりと自由に企画が出せたので、森村泰昌さん、藤本由紀夫さんといったアーティストなどインタビューしたい人にがんがん会いに行きました。
美術中心でやっていこうとフリーランスの編集プロダクションに所属し、『ぴあ 関西版』に署名記事を書き始めたんですが、たった400字の原稿にも編集者からどさっと資料を渡される。この時代に美術史や美術を書く基本を学びました。

三角形をつくる

そして、個人でインタビューのフリーペーパー『Ai』を創刊します。

山下:当時のギャラリーのあり方に違和感を持ったことがきっかけでした。美術は「作品をつくる人」だけで回っている閉じた世界のように思えたのです。それがいやで、アーティストとみる人をつなぐメディアとして『Ai』を創刊しました。
ギャラリーからアーティストの個展に合わせて3万円〜5万円で発注してもらい、完成させる形でした。当初はB4判の裏表にインタビューと作品写真というスタイル。毎号1000部ほど印刷して、ギャラリーに置いたり、切手代だけもらって関係者や知人に送ったり。
「なぜアーティストを選ばないのか」と批判もされましたが、私は選ぶ必要はないと思っていた。とにかく、ギャラリーと作品とそれを見る人、あるいはギャラリストとアーティストとみる人、三角形をつくらないとだめなんじゃないかと考えていた。私は批評家ではなく、ライターとして「つなぎ手」になる仕事に興味があるんです。

現場から理論へ

文化行政との接点はいつ生まれたのですか?

山下:『地域創造』(※1)で書く仕事を始めてからです。ふつうの雑誌の取材で会うのはアーティストとキュレーターぐらいですが、『地域創造』では美術関係者だけでなく、見る人、ボランティア、市役所職員や市長など地域の人々や行政まで取材する。取材の焦点が「何が起きているか」から「なぜこれ(地域の文化事業)が可能なのか」に移り、これが性に合いました。
私の場合、文化行政との接点は知識からではなく、現場から、人から生まれました。全国各地を取材して知ったのは、文化は「制度」がつくるのではなく、「人」がつくるのだということ。同じような規模や条件の地域でも「人」で差が出る。

そして、大阪市立大学大学院創造都市研究科に社会人入学して都市政策を学びました。

山下:芦屋市立美術博物館(兵庫県芦屋市)が存廃問題(※2)で揺れた時期に『美術手帖』で取材をしたのですが、美術館の現場で聞く話と行政から聞く話があまりに違った。これは現場も理論武装が必要だと痛感、文化行政を理論的に知りたくなって。その後、私も参加していた新世界アーツパーク事業(※3)の顛末も考え続けていました。

アートの目線で見たとき、行政の考え方は堅苦しいんじゃないかと思いますが、それでも文化行政に関わり続けるモチベーションの源泉は?

山下:好奇心でしょうか。なるほど、行政とはこういう仕組みで、こう動くのか、と。知れば知るほど「まだまだできることはある」という思いも強まります。人と地域と文化やアートをつなぐのは、行政の強みが活かせる。大阪府・市の文化振興計画が掲げる「人と地域のエンパワーメント」という分野は将来性のある方向だし、私がこれまでやってきたことも生かせる。アートは地域や人とつながることで可能性がもっと広がるのではないかと思います。

大阪アーツカウンシルでやりたいことは?

山下:大阪には、いい人材がたくさんいます。それをつないで見える形にすることが必要だし、やりたい。
また、大阪府、大阪市の文化事業には、府のおおさかカンヴァス推進事業(※4)や市のブレーカープロジェクト(※5)のように良質なものがある。一方で何のためにそれをするのかというミッションがあいまいで行き詰まっている事業も多い。アーツカウンシルが入ることによって、もっとうまく回るようにしていきたいですね。
文化行政の大きな目的は、人々に「ここに住んでいてよかった」と感じてもらうことだと思う。昔は生まれ育った土地に定住するのが当たり前でしたが、高度経済成長期以降、人々の移動が容易になった。「そこに住み続ける理由」は新たに創造し続けないとあっという間に崩れてしまう。行政の文化政策の意味はまさにここにあるのではないでしょうか。

山下さんのキーワードは「つなぐ」ですね。

山下:いま、大阪の文化にはネットワーキング、そして情報発信がとても重要です。

(聞き手・構成=佐藤千晴)

※1 地域創造
地 方団体の要請に応えて文化・芸術の振興による創造性豊かな地域づくりを支援することを目的に、1994年に当時の自治省(現・総務省)の所管で設立された 財団(現在は一般財団法人)。地域における文化・芸術活動を担う人材の育成や、公立文化施設の活性化を図るための各種支援事業(音楽・ダンス・演劇・邦 楽・美術・助成)などを行い、「地域創造レター」なども発行している。

※2 芦屋市立美術博物館
開館は1991年。当初は市文化振興財団が運営していたが、阪神大震災後の財政難から市が2003年に打ち出した行財政改革案で存廃の危機に。存続を求め る市民がNPO法人「芦屋ミュージアム・マネジメント」(AMM)を設立し、2006年4月から市の直営、AMMへの業務委託となった。
11年4月から指定管理者制度に移行、AMM、小学館集英社プロダクション、グローバル・コミュニティの3者共同体が運営している。

※3 新世界アーツパーク事業
大 阪市の「芸術文化アクションプラン」の一環として、浪速区にあった都市型遊園地を含む商業施設フェスティバルゲートの空き店舗スペースにアートNPOを誘 致する公設民営型のアートプロジェクト。山下さんも仲間と日曜のみの図書喫茶「ダーチャ」を運営していた。2002年から10年計画の構想だったが、途中 で市の文化政策が変更され、07年に建物が閉鎖、活動していた団体は退去を余儀なくされた。

※4 おおさかカンヴァス推進事業

※5 ブレーカープロジェクト