大阪アーツカウンシルでは7/28夜、ピッコロシアターの古川知可子さんを「あつかん談話室」のゲストに迎え、音声ガイドつき演劇公演の試みについての話を聞きました。

ピッコロシアターは「特別支援劇場」
まずご紹介いただいたのはピッコロシアターの特徴です。正式名称は兵庫県立尼崎青少年創造劇場。大きな特徴は全国で唯一、学校とプロの劇団を運営している公立の劇場であることです。

「開館したのが1978年なので、来年で40周年です。ですから雨が降ったら雨漏りするとか、昨日開いた扉が今日開かないとか(笑) 日々いろんなことが起こります」
音声ガイドをするきっかけにもなっている助成金が文化庁の「劇場・音楽堂等活性化事業」です。特別支援事業として、2013年から5年間の今年度いっぱいまでは文化庁からの助成を受けています。ではその特別支援事業とはどんなものなのでしょうか。
「定義としては『我が国における実演芸術の水準を向上させる牽引力となるトップレベルの劇場・音楽堂等が行う公演事業,人材養成事業,普及啓発事業を総合的に支援』となっています。つまり、ピッコロシアターは、取り組むことが困難な事業にも、率先して挑戦していくことが求められる劇場なのだと私は理解しています」
古川さんは、40周年を迎える劇場の外観や内部の写真をプロジェクターに映し、わりと小ぶりな劇場だと説明しました。
大ホールは396席。中ホールは定員200人で、37年前に劇団☆新感線が旗揚げした地でもあるそうです。ほかに小ホール、練習室、展示室、演劇資料室があります。資料室は舞台芸術の入門書から専門書まで、台本を含めて約17,000冊を所蔵し、閲覧や貸し出し可能な図書室のような場所です。
「もともと設計の検討委員会から地元の若者の要望を積極的に取り入れてつくられました。アマチュアが使いやすいよう舞台はゆったりと、でも客席は多くなくて良い等の意見が設計図に盛り込まれました。ですから非常にアマチュア目線というか、若者目線でつくられた、どちらかというと“見る”よりは“演じる”ためにつくられた劇場です」
「バリアフリーにはほど遠いつくりです」と古川さんは言います。例えば車いす専用席はなく、客席の階段もかなり段差が大きく、シニアには上り下りがたいへんなのだとか。
「日本で“バリアフリー”という考え方が広がったのは、国連が定めた1981年の国際障害者年が大きな転機だったと言われています。それより前にできた劇場なので、おそらくバリアフリーの考え方がまだなかったのかなと思います」
事業面では、演劇学校・舞台技術学校を30年以上運営しています。当日の「あつかん談話室」参加者にはOBの方もおられました。年間を通して、創造、人材育成、交流を行っている劇場だと言います。
「ピッコロ劇団は全国で初めての県立劇団で1994年にスタートしました。自前の劇団というものがあったからこそ音声ガイドに取り組みやすかったと思っています」
劇団の代表は劇作家・演出家の岩松了さんです。劇団員は35名所属し、俳優や演出家がいて、演劇指導や教育が得意な劇団員もいるそうです。
「劇場付属のプロ劇団があるということで、活動にさまざまな可能性が広がると思っています。昨日もピッコロ劇団の稽古場で公演の通し稽古をやっていて、音声ガイドの台本をチェックし、終わってから演出助手と台本の中身を相談し、見えない方に舞台装置のイメージをもってもらうために、舞台模型を触らせてほしいと頼んだり……側に創造現場がある強みですね」
ピッコロシアターの音声ガイドとは?
音声ガイドつき演劇は2015年、「ピッコロ劇団ファミリー劇場」という夏休みの家族向け公演での「さらっていってよピーターパン」からはじまったそうです。
「この作品の上演が決まったときに、私はこれしかない! この作品につけなきゃと思いました。別役実さんという日本を代表する劇作家が、ピッコロ劇団のために書いてくださった作品で、繰り返し上演している財産演目です。脚本が抜群に良く、大人から子どもまで楽しめる。再演する可能性も高いので、音声ガイドをつけるならこれだ!と思いました。本来のピーターパンは永遠の少年で冒険好きですが、別役実版ではピーターパンはおじさんになって、冒険したがらないんですよ(笑)」
ここで言う「音声ガイド」とは、舞台上の風景や登場人物の表情など、視覚的なものを音声で説明することを言います。
「テレビの副音声で解説放送を聴いたことはありますか? 2時間ドラマで『断崖絶壁の上。犯人、後ろから迫る…』という感じです。いま映画館で公開中の河瀬直美監督の『光』という最新作は、映画に音声ガイドをつける制作者、ディスクライバーという仕事をする若い女性と、視力を失っていくカメラマンとのラブストーリーですが、視覚障害者の世界や、どういうことを想像して台本をつくるのか、よく描かれていますよ」
映画『光』公式サイト 河瀨直美監督・最新作
http://hikari-movie.com
プロジェクターに打ち合わせ風景が映し出されました。演出家と舞台監督が演出のコンセプトやイメージを音声ガイドを担当するアナウンサーさんに伝えているところです。次に映し出されたのはバリアーフリー研修です。ピッコロシアターの職員や劇団員がさまざまな障害の種別の勉強をしたり、アイマスクをつけて誘導の練習をしている様子が紹介されました。

「最寄りのJR塚口駅までお迎えにいっているところです。駅の中では駅員さんが誘導してくれるので、駅を出てからは、うちのスタッフやボランティアの方が劇場までごいっしょします」
続くスライドは劇場の上の音響室です。ライブで音声ガイドをつけるために、舞台のモニターが設置されています。
視覚が不自由な方にラジオとイヤホンを渡し、FM電波を飛ばして実況中継をする仕組みです。
ここで古川さんは、舞台で使う音声ガイド台本を回覧しました。
「広報する際に点字のチラシもつくっています。これは反転版チラシです。視覚障害の方の見え方は、まったく見えない、ぼんやり見える、視野が狭い、視野が欠けているなど、さまざまです。光を強く感じる方は白いペーパーに黒い文字は見えづらいので、反転にして黒地に白字で、なおかつ大きめのゴシック体で書くようにしています。点字チラシをダイレクトメールで送ったり、いろんな関係施設・団体に協力してもらいPRしています。実は点字は視覚障害者の1割程度の方しか読めないそうです。ですから、これさえあればいいんだということにはならないんですね。様々な方法で伝える努力をします」
終演後、ロビーに出演者たちが集まり、お客様と交流しているスライドが映し出されました。衣装が特殊なので、触れてもらうそうです。「海賊役の俳優は筋肉モリモリで盛んに触られていました(笑)」と古川さん。昨年からは開演の前に舞台装置のイメージや出演者の年齢構成を伝えたり、衣装の材質を触ってもったりする作品説明会を始めました。演劇の音声ガイドは、全国的にも稀な取り組みで、新聞各社が大きく取り上げてくれたと言います。
「新聞掲載は次回のPRにもなる上、劇場の存在意義を発信する意味や、助成金を獲得する説得材料にもなります。それも大事なことですが、何より仲間ができるというか、新しい出会いがあったり、協力してくださる方とつながっていけたりするのがうれしいです」
音声ガイドに取り組むきっかけは?
古川さんはそもそもなぜ音声ガイドに取り組まれたのでしょうか。きっかけは友だちのある一言だったと振り返りました。

「2010年の終わり頃に、福祉の現場にいる友人から『ねえあなた、公立劇場に勤めてるんやったら、視覚障がいの人にお芝居を見せられへん?』と言われたんです。最初キョトンとしました。『えっ、見えない人が見るの?』という感じで。その彼女から『音声ガイドというものがあり、最近は映画などに結構ついてんねんよ』と聞いてびっくりしました。私自身もド近眼なのですが、もし見えなくなって、好きな芝居が見られへんようになったらさみしいと思い、音声ガイドについて調べ始めました」
古川さんはすぐに大阪にある日本ライトハウス情報文化センターを訪ねました。基本的なことを教わり、できると確信します。
「これはやるべし!と思いました。自前の劇団もあるし、絶対できる!と熱くなりました。企画書をまとめて、職場で提案しました。すぐにオッケーがでると思っていたら…あえなく却下されました。意義は認められましたが、そのときに出た三つの意見がこちらです」
三つのハードル
(1)今すぐに取り組むべき課題か?
(2)ニーズはあるのか?
(3)芸術性は担保できるのか?
「(2)のニーズはあるのか?ですが、確かにそれまで誰からも音声ガイドをつけてほしいという要望がなかったんですね。(3)が一番ガーンときました。そんなんで芝居を見たことになるの? 芸術性を担保できているの? と言われ、ショックでしばらく落ち込みました。反論できなくて、もう一回勉強しなおしだと思いました」
そして古川さんは再度、日本ライトハウスを訪ねます。点訳や音訳の現場も見せてもらい、膨大な映像や本を相手にボランティアや職員の方が黙々と作業されている様子を垣間見ることができたそうです。

「胸が熱くなりました。見ているときに足元がゆらりと揺れて、『私、体調悪い?』と思ったのですが、それが2011年の3月11日、東日本大震災の日でした。東北の激震が大阪のビルの上まで伝わってきたのです。そこからニュースに釘付けになって。突然たくさんの方の命が奪われて、やりたかったこともできなくなった人がいる中で、自分はたまたまライトハウスにいて、やりかけたことがあって…。これはやめたらあかんのんちゃう!という気持ちになりました」
ではどう3つのハードルをどう乗り越えるのでしょうか。(1)の今すぐに取り組むべき課題か、は劇場法(正式名称「劇場、音楽堂等の活性化に関する法律」)によってクリアしました。
「2012年に劇場法ができ、指針に『年齢や障害の有無等にかかわらず、より多くの利用者が実演芸術の公演を鑑賞できるよう、字幕を表示した公演を実施するなどの様々な工夫や配慮等を行うこと』と明記されていました。ピッコロシアターが『特別支援劇場』になったのが2013年。2016年には障害者差別解消法が施行されることもわかっていました。いますぐにやるべき課題かというよりも、ピッコロシアターが率先してやらなければいけない課題なのではと、劇場内の雰囲気も変わっていきました」
(2)のニーズはあるのか?ということに関しては、上司や同僚に堺市にあるビッグ・アイという日本で唯一の国立国際障害者交流センターで、さまざまなサポートを付けて舞台を楽しむ人たちの姿を見てもらうようにしたそうです。
(3)については答えが出ていないものの、「人間には感性や想像力があります。私もド近眼ですが、もし見えなくなったとしても、想像力を駆使してやっぱり舞台芸術を楽しみたいと思っています」と古川さんは語りました。
音声ガイドの取り組みの結果、2015年は視覚障害の当事者27名、家族などが20名の計47名が来館されました。2016年は当事者33名、家族など17名で合計50名。すべてチケットを買っての来場でした。
アンケートには「初めて演劇を見て楽しかった」という70代の方や、「ピッコロのスタッフが勉強していて、快適に過ごせた」という意見をもらって、すごくうれしかったと言います。中には「音声ガイドが多過ぎて舞台に集中できなかった」という声もあり、試行錯誤が続いたそうです。
その後、ピッコロシアターでの落語会にもお誘いし、毎回10名前後の方が音声ガイドなしで参加されています。開演前に舞台に上がってもらい、落語家さんにレクチャーしてもらっているそうです。「客席の中に白杖をもった方も自然に溶け込んでもらえるようにしたい」と古川さん。
聴覚が不自由な方に向けての試み
その後、2017年6月には、俳優の江守徹さんの入場無料のトークショーに聴覚障がい者のために手話通訳と字幕をつける試みにもチャレンジしました。
「やってみなくちゃわからなかったことがいっぱいありました。有名な俳優さんのトークを入場無料で気軽に楽しめるし、福祉イベントの情報保障は当たり前ですが、文化イベントでは珍しいので、反響がすごくあると期待していたのですが……」
聴覚障害の方の申し込みは低調で、最終的に6名の参加があったものの、地域の手話サークルさんのつてを頼って誘った方々だったそうです。
「終わってからいろいろ感想を聞いたところ、ある方に、江守徹さんをよく知らないと言われました。そもそも舞台にも映画にも字幕がつかないため、江守徹さんの演技を見る機会がないので、有名人かもしれないけれど、興味がもてないとのことでした。聞こえる人の文化に合わせていただくだけじゃなくて、聞こえない方には聞こえない方の世界があって、私たちの知らない、また豊かな文化があるんだと思いました。その文化にも寄り添えるよう、引き続き研究の余地ありです」
今年は8月6日のピッコロ劇団ファミリー劇場「赤ずきんちゃんの森の狼たちのクリスマス」ではじめて劇団員で、俳優による音声ガイドをやってみようということになったそうです。

現在は、劇団員みんなでこうじゃないか、ああじゃないかと稽古しているところなのだとか。
続いて、日本全国の劇場の障がい者受け入れがどうなっているかという資料についてご紹介いただきました。
公益社団法人全国公立文化施設協会(通称、公文協)が発行している調査報告書によれば、回答したのは222館。その中で障害者対応はどうなのか、という問いに対して95パーセントが「問題なく対応できた」となっています。ではどんな対応をしているのか、という問いに対する43パーセントは「特別な対応はしていない」と答えています。
「矛盾した結果が出ています。おそらく当事者の方が自分で問題の発生を見越して、介助者に一緒にきてもらうか、そもそも来場することをもとからあきらめているのではないかと考えられます。観客が潜在化しているのかもしれません」
では劇場でのシアターアクセシビリティはどんなことが考えられるか。古川さんが考えたことをいろいろあげてくださいました。

すぐにできそうなものもあると古川さんは言い、こう続けます。
「これによって私自身、障害の概念が変わりました。障害はその人にあるのではなくて、環境というか、社会のほうにあるというイメージができました。私もコンタクトレンズという環境がないと、ほとんど見えないので。そういうことですよね」
古川さんはこんな言葉で話を締めくくりました。
「劇場に来ない人に想いを馳せる、それが公共劇場の仕事だと私は思っています。これからも勉強しながら、新しい観客との出会いを考え続けていきたいと思っています」

休憩をはさみ、後半は参加者15名のそれぞれの自己紹介や、感想や質問があり、その後、みんなで雑談をする時間となりました。
参加者の肢体が不自由な方の意見では、こんな話が印象的でした。
「気になったのは学校公演です。聴覚とか視覚が不自由な方の学校にどれぐらい行っているのでしょうか。私は聴覚が不自由な方とは大人になってから出会いました。情報手段が違うのは大きな壁だと、大人になってから知ったことが多くて、触れないまま大人になるのはだめだと思いました」。
「音声ガイドでどこまで伝えるべきか」という演出に関する話題もこれからの未来を想像できる内容でした。
「『舞台上で役者が右回りをしました』と事実を伝えればそれで良いという方もいるし、回転する方向ではなくて、役者はみんなで楽しそうに踊っています、と情景を伝える言い方もある。音は聞こえているので、声の感じで賑やかにしゃべっているんだなということもわかります。あのホールの誰々さんの音声ガイドが好き、ということが起これば面白いかも」
古川さんはうれしかったこととして、視覚が不自由な方による演劇鑑賞サークルができたエピソードを紹介してくれました。
「ピッコロ劇団のサポートクラブに入ってくださったんです。情報はテキストベタ打ちでメールを送ると、音声読み上げソフトで読んでくださいます。チケットのオーダーはメールで頂戴しています」
今回の参加者の中には特別支援学校で働く方や、別のホールで働く方もいて、それぞれの体験談もお聞きすることができました。こんなふうに「あつかん談話室」では、さまざまな活動をする方の体験を共有する時間を大切にしていきたいと考えています。
今後もアートの仕事という切り口で、さまざまなジャンルの方をゲストにお招きします。ゲストから新しい取り組みの試行錯誤をお聞きすることで、新しいジャンルの扉を開く機会にもなれば幸いです。
(構成/狩野哲也)